「おとーさーん!」
少年の呼びかけに、返事は無かった。
「おとーーさーーんっ!!」
一度目よりも大きな声で呼びかけたが、川の流れと迫り来る夕闇によって、その声は無残にもかき消された。
その日の昼下がり、少年は父に誘われて近くの川まで釣りに来ていた。
家から歩いて20分ほどの場所にある渓流では、マスやヤマメにハヤ、時々イワナも捕れた。
渓流釣りを好む少年の父は、良く釣りに出かけていた。
しばらくの間、少年は父の釣りを眺めていたが、一向に釣り糸が引っ張られる様子は無かった。
変化の無い釣りの様子に飽きてきた少年は、自分の背丈の数倍ある巨大な石に登ったり、小枝を振り回して遊びはじめた。
本流から外れた水たまりでは、アメンボが器用に水面を走っていた。
朽ち果てた倒木の片隅に、白い蛇の抜け殻を見つけた。
薄暗くなり始めた河原では、ヒグラシが鳴き始めていた。
ふと、少年は父が釣りをしていた場所に目をやったが、そこに父の姿は無かった。
魚を探して新しいポイントに移動したんだろう。少年はそう考えた。
父を探して上流に向かったが、途中で大きな岩と川の流れに阻まれ、そこから先には進めなかった。
大声で父を呼んでみたが、返事は無かった。
心なしか、ヒグラシの鳴き声が先ほどよりも大きくなった気がした。
辺りは暗くなり始めていた。夏とはいえ山間の日暮れは早い。
もう一度だけ父親を呼んでみたが、自分の声が届かないかもしれないことには、薄々気がついていた。
きっとかなり上流まで移動してしまったに違いない。
悲しげなヒグラシの鳴き声が、余計に少年を心細くさせる。
昼間は穏やかに感じた川の流れる音も、夕闇が迫るにつれ、少年の気持ちをざわめかせる、不安な音色へと変わった。
泣きたくなった。家の明かりが恋しかった。
日は暮れてしまったが、まだかろうじて辺りは見えた。
記憶をたどって、来た道を戻ることにした。一人で帰ることに迷いは無かった。暗闇でこのままじっとしていると、押しつぶされそうな気がしたからだ。
少年は歩き始めたが、周りが見えないせいで自分の進んでいる方角には自信が無かった。日中、父と歩いた記憶だけが頼りだった。
途中、道を見失ってしまったが、両手を使って木々の生い茂る斜面をよじ登った。
木の根に足をとられ何度か転んだ。木の枝が無防備な顔に幾度もぶつかってきた。
このまま帰れなかったらどうしようかと、不安になった。
ふと、頭上を見上げた。
丸く青い月が少年の歩調に合わせるように、夜空を移動しているように見えた。
少年が歩くのをやめれば月も止まり、少年が歩き始めると月も一緒に移動を再開した。
先ほどまでの不安が、少しだけ和らいだ気がした。月がついてきてくれることが心強かった。
河原を出てからだいぶ時間が過ぎた後、見覚えのある道に戻っている事に気がついた。
少年の家は、つづら折りの獣道がある雑木林を抜けた先にあった。
それから程なくして、少年は家に着いた。母と祖母が、心配そうに待っていてくれていた。
父はまだ帰ってきていなかった。
母が言うには、少年がいなくなったことに気がついた父は、二度家まで引き返した後、再び少年を探すために河原に向かったらしい。
どうやら、本来のルートから外れて少年が山の中を歩いていたため、少年を探す父とは遭遇しなかったらしい。
そんなことを話しているうちに、少年の父が玄関に現れた。
少し息を切らせて汗をかいているようだったが、少年を見て、安堵しているようにも見えた。
父は少年を叱責しなかったし、少年も自分を置いて釣りに夢中になっていた父を責めることはしなかった。
少年は、暗くて不安だったこと、道から外れて斜面をよじ登ったこと、月が動く方向を見ながら、歩いて帰ってきたことを父に話した。
「そうか」
少年の頭にごつごつした右手を載せ、頷きながら父はひとこと、そう言った。
先ほどまで少年と一緒だった月が、夕闇にたたずむ山々の輪郭を優しく照らしていた。
2018/10/23
-釣りが好きだった父と、あの日導いてくれた月に捧げる-
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